不登校だったけど、なんとか生きてる

社交不安障害が寛解している学生のひとりごと

病み期がきた

こんなに気分が落ちるのは久しぶりだ。

先週から、なんのやる気も出なくなった。

 

  • 先週の月曜日

学校に行った。いまの授業内容に興味がないのもあるけど、勉強に身が入らなくて、授業中に何度か放心状態みたいになった。

学校が終わって、家に帰る間もなくバイトに向かった。

バイトは楽しかった。自分の役割とか仕事があるし、一緒に働いている皆さんが優しいから。

夜、バイト終わって家に帰って、学校に行く意味がわからなくなって、大泣きした。

その時点で火曜日は休もうかなとか思っていた気がする。

 

  • 先週の火曜日

学校を休んだ。

なんかこの辺から体調不良にもなった気がする。

倦怠感とイライラと、生理前だという自覚もあった。っていうかこの頃に前回の記事を書いたような気がする。わからない。

 

  • 先週の水曜日

学校を休んだ。

学校終わりに予定を入れていたけど、微妙な体調不良が続いていたから、その予定も当日キャンセルした。

この辺から咳が出始めた気がする。

 

  • 先週の木曜日

学校を休んだ。朝起きられなかった。

バイトは行かないと、でも休みたい、なにもしたくない、しんどい、今頑張ってもどうせ同じことになると思った。出勤2時間前から、今日は休みたいという電話をかけようとしていた。

スマホ片手に「お疲れ様です。今日、体調が悪くて」と言う練習をひたすらしていた。実際に微熱で鼻声だった。涙が止まらなかった。でも生理前の一時的なもののような気がした。だから休むかめちゃくちゃ迷った。気持ちはしんどいから行きたくなかった。

バイト先の人は、誰が出ても心配してくれるような優しい人しかいないのは分かってた。でも怖かった。迷惑をかけたくもなかった。

先々月にも体調不良で当日欠勤してるから、「またか」と思われる可能性をなくしたかった。でも休みたかった。ずっと文言の練習してたけど、結局かけることができなくて、出勤30分前くらいになって、さすがに今から連絡はできないから、諦めようと思った。どうせ出勤するなら早く行きたい、家にいたくない、と思って、でも30分経つのがめちゃくちゃ遅くて、しんどかった。

バイト自体は頑張れた。バイトに向かっているときも、詰まっていた鼻に空気が通るようになったから、頑張れるかも!と思った。

でも仕事が始まったらめちゃくちゃ鼻声になってどうしようと思った。

なんとなくしんどいのはずっとあった。でも生理前なんだろうと思った。

バイトは行ってよかったと思った。

ただ、気分がすぐれないのも微熱っぽいしんどさも生理前のせいなんだと思って、明日病院に行こうと決めた。学校にも行ける気がしてなかったから。

 

それと、金曜日に就活の予定を入れていたけど、今の精神状態で頑張れる気がしなくて、15時過ぎに企業とのチャットツールを使って、欠席の連絡をした。本当は行きたかったけど、行ってもグループワークを頑張れる自信がなかった。

 

  • 先週の金曜日

学校を休んで、初めて婦人科に行った。

3か月前くらいから生理近くなると気分のコントロールができなくなってる気がしてたから、いずれ婦人科には行かないと、と思っていた。

問診票の「イライラ」の項目に丸をつけていたこともあって、「PMSだろうね~」と言われて、ピルを処方してもらえた。

でも、ピルが生理3日目くらいから服用するやつで、きっと次回以降の生理前には効果があるんだろうけど、今回の生理前はどうしようもないんだと分かって、めちゃくちゃしんどかった。

もうすぐ生理始まる気はしてるけど、それまで薬飲めないのか、と。

 

  • 先週の土曜日

土日もバイトの予定だった。休み続けてもこの状況がよくなる気はしないし、バイトに行けば自分の存在意義を感じられるから行きたかった。

でも行きたくないと思った。もうなにもしたくなかった。

行きたいけどまた休んだって、でも、でも、と、またスマホ片手に泣いていた。

泣いても何も変わらないことはわかるから、泣き止んでみるけど、頭が働かなくて、ボーっとしていた。

結局、出勤20分前に休ませてくださいと電話をした。

明日も出勤の予定だけど、しんどいと思いますと伝えた。

やっぱり電話口のバイト先の人はやさしかった。

とりあえず明日のことを考えなくてよくなったから、そこは少し楽になった。

 

  • 先週の日曜日

日曜日は、ゆっくり過ごすことができたと思う。

何をしていたか記憶がない。母に言われて外に出かけたような気もするけど、いま思い出す気力がない。

火曜日に就活の予定を入れていたけど、いまはとにかく休みたい、なにもしたくない、行ってもがんばれないと思ったから、サイト上から予定をキャンセルした。

水曜日にも就活の予定を入れていたけど、そこはサイト上からキャンセルできなくて、メールか電話連絡するしかなさそうで、もうなにもする気がでなかったから、キャンセルすることは諦めた。当日の自分にがんばってもらおうと思った。

月曜日もバイトの予定があったし、月曜日は短時間だから頑張ろう、

とはもう思えなくなった。

もうなにもしたくない、動きたくない、考えたくないとしか考えられなかった

 

でもそれじゃ迷惑をかけるだけだから、バイト先の人にしばらく休ませてほしいとメッセージを送った。

めちゃくちゃやさしいメッセージが返ってきた。

 

ということまで書いて思い出したけど、日曜日のお昼、友達にLINEした。

具体的な内容はなにも書かなかったけど、たぶん友達に助けを求めていた。

そしたら友達が察してくれて、急きょ会うことになって会った。

そこで、バイト休んだ方がいいと思うとアドバイスしてもらって、バイトを休ませてもらうことにしたんだった。

 

正直、バイトを休む選択肢は私の中になかった。居心地がよくて、居場所になってたから

でも、客観的にみたときに優先順位として低いのがバイトであることも分かってた

だから休ませてもらうことにした

しばらく休めるから、出勤を気にしなくて済むことに安堵した

 

 

久しぶりに長文を書いたら疲れてしまったから、とりあえずここまでにする

キャンセルできなかった就活の予定がこれからあって、いま、本当にやる気がなくてしんどいけど、2時間だけ耐えたら終わるから

がんばる

終わったら、心療内科で処方してもらった薬をもらいに行く

 

もうなにもしたくないな

不登校時代の振り返り④

不登校時代の振り返り③のつづき。

中学3年生の時の話。といっても、大きなイベントごと(当社比)は③までに書いた通りで終わっていて、3年生は別室登校をして進路を考え出している時期だったので今回は短めで書き終わると思う。

 

正直、中学生の間は学校より心療内科で受けていたショートケアプログラムの方が対人慣れにしめた比重が大きい。こちらは週1で通っていて人とも関わっていたから。別室では別室に常駐している先生と話すくらいで、私と同じように別室に来ている子たちとはほとんど話さなかった。心療内科のことはまた今度書く。

 

中学3年生:通信制高校に決める

中1の頃から不登校の将来について自分なりに調べていて、そこで初めて通信制高校というものを知った気がする。それか、親に教えてもらった。

通信制高校の存在を知ってからは私は全日制高校は無理だろうと考えた。3年生になってからも全日制に行くかどうかは迷っていたと思うけど、1:9で通信制に行くつもりでいた。中学校さえ1週間で行けなくなったのに、高校から週5日通い始める自信はなかった。

 

オープンキャンパス通信制高校だけ行った。もちろん1人で行くのは怖かったので、親に一緒に行ってもらった。ちなみに通信制高校の場合は友人と来ている人の方が少なかったと思う。というかいなかったような。保護者と来ている人がほとんどで、保護者しか来ていないところもあった。なんにせよ誰と行くかは重要ではなく、その学校の雰囲気を知ることと何を聞いてくるかが重要だと今となっては思う。私が当時オープンキャンパスについて調べていたら「友達と行く」という選択肢があったから「親と行ったら浮くのではないか?」と少し不安を感じていたけど、通信制オープンキャンパスではそんなことなかったので、あれは全日制の話なんだと思っている。

 

私が説明会に行った通信制高校で覚えているのは3校だけ。うち2校は生徒が明るく和気あいあいとしている感じで(生徒同士でテレビゲームしてた・個別で説明してくれた生徒の方の愛想が良かった)もう1校は自分が通うことになる高校だったのだが、ここは生徒がマイクを持って先生からの質問に答えていくスタイルだった。

そこで「遅れて教室に入っても白い目で見られないところが良い」ということをのちの先輩(といっても関わることはなかったけど)が語っていて、説明会に来ていた保護者たちがあ〜と頷いていたのを覚えている。少なくとも全日制ではあり得なさそうな空気で面白かった。

どの学校も魅力的だったが、その学校の雰囲気がなんとなくしっくりきたのと、パンフレットのデザインが一番好みだったとか、ほとんど感覚で選んだ。学力とかは全く気にしなかった。入る前は勉強ついていけるかな、とか思ってたけど、入ってみたらそんな心配はほぼ無用だった。

ちなみに中学校で高校の面接練習もしてもらえた。校長室に入って校長と練習した。めちゃくちゃ緊張した。

 

ほとんど進路決めについての話になってしまったので中3の話に戻る。

中学校も卒業式は出なかった。卒業アルバムも個人写真だけ個別で撮った記憶はあるけど、アルバムに掲載されたのかどうかは覚えていない。私は写真が嫌だったし今でもアルバムは見ようと思わない。親はアルバムを買っていたけど。自分の子どもがほとんど載っていないのが申し訳ない。

ただ小学校と違う点は、卒業証書は学校に自ら受け取りに行った。卒業式当日に受け取ったかどうかは覚えていないけど。

狭い校長室でたくさんの先生に囲まれながら証書を受け取った。怖。ありがたいけどほとんど初めて見る先生だった。

 

以上が私の不登校時代の話である。

通信制高校に入ってからの話も今度書けたらいいなと思う。

不登校時代の振り返り③

不登校時代の振り返り②のつづき。

中学校2年生に進級してからのお話。時系列をほとんど覚えていないので当時の日記引っ張り出してきた方がいいかな。あんまり読み返したくないけど。

 

中学2年生:別室登校を始める

当時の日記を引っ張り出してきたら、友達と遊んだり(自分から誘えないので誘ってもらって遊んでた)旅行に行ったり趣味を楽しんだり、割と明るめの内容が多かった。しっかり現実逃避していたのかもしれない。あと家族が外に連れ出してくれてた時期。

ちなみに別室登校については「別室に行くようになった👏」と書いてある。

 

別室登校はみんなと同じ時間に登下校するのは避けていた。授業が始まってから登校して、終わる前に下校。配慮なのか校門から近いところに別室があったため、人と会うことはほぼ回避できた。たまにたくさんの生徒とすれ違うことがあって生きた心地がしなかった。普段通ってないから誰か同級生かも分からない。

ちなみに別室はカウンセリング室としても使われていた。ソファとかあった。カウンセリングで使われる時は、別室にいる子たちはその時間使われていない家庭科室とかに避難していた。

何度か別室に友達が来てくれることがあったが、別室ってこんな感じなんだ〜!というリアクションをしていた子もいたため、普通に通っている生徒はほぼ訪れることのない教室だったのだと思う。

 

別室登校も緊張していたけど、教室に入ることを考えたら全然マシだった。それでも週に2回行けたらいいくらいだった。中3の頃にはもう少し登校日を増やしていたと思うけど。

ちなみに教室には2回行った。

 

なぜ行こうと思ったのかは分からない。でも1回目は担任の教科の時に授業を受けに行った。

近所の友達に別室まで迎えに来ていただいて、2年生になってから初めて自分の教室に向かった。入る直前に初めましての子に「この子?イメージと違う〜!」と言われた。その子が私に対してどんなイメージを持っていたのか未だに分からない。

授業が始まる直前に先生が席に着くように呼びかけて、私も自分の席を教えてもらって(一番後ろだった)着席したら、私の前に座っていた、同じ小学校のあまり話したことのない子が微笑みかけてくれてとても嬉しかった。

日記を読み返しても正直思い出せないけど、目があって微笑んでくれた子が他にもいたり、1時間だけ授業を受けるつもりだったからその授業が終わり次第帰ろうとしたら、廊下で同じ小学校で仲良くしていた子たちが話しかけてくれていた。めちゃくちゃ友達に恵まれている…

ちなみにこの当時話しかけてくれた子たちは今でも交流させていただいている。ありがたい。

ちなみに着席する直前、手は震えてたし座る動作もぎこちなかったと思うけど、座った瞬間に私の両肩をグワッて掴んで何も言わずに去っていった、同じ小学校のまた別の同級生がいて、何か意図があったのかは分からないけどとても嬉しかった。

 

これが金曜日の話で(おそらく土日でしっかり休む為)月曜日には2時間連続で授業を受けに行った。

その時は話したことのない子たちにも話しかけていただいていた。

今、本当に周りの人たちに恵まれていたのをただただ実感している。なんで不登校になったんだろう…未だに分からない。

 

教室に行ったのは多分これきりだった。

あとは別室登校をしながら体育祭の準備に携わらせてもらったり、職場体験に参加させてもらったりしていた。職場体験は緊張したけど本当に良い経験をさせてもらえた。この時一緒に行くことになった子も元々遊んだことのある子だったのが良かった。その組み合わせに関してもその子たちや先生と何か話し合いをした気がするが、よく覚えていない。あと近所の子も担任も3年間同じクラスにしていただいた。ただ自分から同じようにして!とか希望を出した記憶はない。配慮していただいたのだと思う。本当にありがたい。

 

今回は周りの人に恵まれていたことの振り返りになった。こんな環境にいても不登校からの脱却はできなかったけど。当時はこのありがたさに気づけていなかったのかもしれない。

 

につづく。

不登校時代の振り返り②

不登校時代の振り返り①のつづき。今回は中学校に入学する少し前からの話。

リストカットの表記があるので(始まりと終わりをしるすけど)閲覧注意。

 

中学1年生:1週間行くが、再び不登校になる

小学校を卒業して、中学校を入学するまでの空白の期間で私は「中学こそは!」と前向きになっていた。なんの根拠もない自信があった。

確か当時の私は通信教材で勉強していて、その教材についてくる短編漫画の中学校生活はキラキラしていて、少し夢を見ていた。夢を見ることは悪くないけど、自分で自分を振り返ると馬鹿だなあと思ってしまう。後述するが、再び不登校になるきっかけの1つがとても些細なことだった。

 

少しさかのぼるが、小学校の卒業式の前に近所の友達が手紙をくれた。

勝手な私を気遣う内容で、とても嬉しかった。その子は低学年の頃からの友達で、本当に優しい子で、中学校3年間お世話になったし、今でも交流させてもらっている。

手紙には「あなたが良ければ卒業式に一緒に行かないか」ということが書かれていた。

①の方で記述した通り卒業式には出なかったが、中学校の入学式はその友達と行くことになった。正直、どちらが先に誘ったかは覚えていない。

 

入学式当日、友達と中学校へ向かった。

校門にある立て看板の前で写真も撮ったと思う。自分の髪型が変だった。

クラス単位で並んで体育館に向かっている時、6年生の時の担任が近くにいるのが見えて、その先生のことは今でも好きだけど、その瞬間はテンションが下がった。小学校を思い出すから。他の子に「先生だ〜!」「久しぶり〜!」と騒がれていた記憶がある。

小学校の卒業式で私が担当するはずだった呼びかけをやってくれた子に遭遇して、「あの時はごめんね〜!ありがとう!」ということを伝えた。努めて明るく伝えたつもりだが、同じ小学校だった子たちに会うのは正直めちゃくちゃ緊張していた。どう思われているのか怖かった。

 

そこからの私は当時にしては頑張ったと思う。

おそらく6年生時の担任と中学校側の配慮により、入学式に一緒に行ってくれた友達と同じクラスだったが、その子は人気者のため、私は休み時間もクラスで1人で過ごしていたと思う。

でもクラスメイトの名前は早く覚えて仲良くなりたいと思っていた。話しかけることは全然できないけど。後ろの壁にクラスの座席表か何かがあったから、休み時間の度に見ては名前を覚えようとしていた。

 

体育の授業があった。

集団行動みたいな授業だった。よく覚えていない。まだ整列する時の順番が決まっていないから、自分たちで背の高さを見比べて順番に並ぶ時間だったと思う。多分。

当たり前のように私は誰とも話せないので人の周りをうろうろしていたと思うのだけど、その時、同じクラスの子が他の子に向かって私のことを「この子」と呼んでいたのだけ覚えている。その他に何を言っていたのかは忘れた。背の順に並ぶ為に何か伝えていたんだと思う。

で、これが私が馬鹿だなと思うし思われるところで、当時の私はこれが悲しかった。

自分が必死に名前を覚えようとしていたのに、私はまだ覚えてもらえていないんだと思った。

今思えば話したこともないし、「コイツ」呼ばわりされた訳でもないのに、本当に私のメンタルの弱さはすばらしいと思う。今も弱いけど。

これがきっかけとまでは言わないが、なんとか1週間通って土日を挟んだら、もう行けなくなった。行かなくなった。

その1週間は近所の友達と私が当時仲の良かった友達と3人で登下校もしていたはずだけど、2人で行ってもらった。その2人はそこまで遊んだりする仲ではなかったかもしれないので、とても申し訳ないことをした。コミュ力がない私がそうされたら気まずいと感じるだけで、2人は仲良くなってくれたかもしれないけど…

 

こんな感じで、いい感じに(?)不登校脱却したと思ったら見事に再不登校になってしまったので、ここからはとても病んでいたと思う。引きこもってばかりで代わり映えのしない毎日だったはずなので記憶がない。家族に外に連れ出してもらったり、色々覚えていることもあるが、どの時の記憶か分からない。

 

 

(ここからリストカットの表記あり)

 

夜中にべそべそ泣きながら腕や足を切るようになった。当時は剃刀を持ったこともなかったけど、リスカには剃刀を使うと聞いたことがあったので、洗面所から持ち出して切っていた。最初は怖くて力を入れられなかったが、だんだんとエスカレートしていった。痛みを感じたり、血が出たりすると安心した。鉄のにおいがした。剃刀ではなくハサミを使うこともあった。家に先生が来る前に腕を切ることでプラマイゼロだと思っていた。何がプラマイゼロなのかは分からない。ストレスを切ることで発散していたのだと思う。

でも、心のどこかで「将来のために控えめにしておこう」と思っていたので、病院に行くほどの傷は作らなかった。当時は「私には将来がない」と泣き続けていたのに、すごい矛盾だ。でもそこで冷静な自分がいたからこそ、今は半袖半ズボンでも出歩ける。

家族にバレた時は家族会議が開かれた。私は参加していないが、最悪だと思った。リスカがバレた次の日の朝、目覚めると母が私の腕をもって泣いていた時は気分は良くなかった。

 

リストカットの表記おわり)

 

 

1年生の時は別室登校もしなかった。担任が頻繁に家に来てくださっていたと思う。今では忙しいだろうにありがたかったと思えるけど、当時は来るなと思っていた。交換日記を提案されて、少しの間だけしていた。といっても自分のことを書きたくなかったので絵だけ描いて渡していた。

 

親に心療内科に連れていってもらえるようになったのは1年生だったかな。よく覚えてないけど。

心療内科に行った話はまた別で書こうと思う。

 

病んでいたけど、勉強は再不登校になってすぐからしていたと思う。情緒が不安定。

ここでやっておかないと学校の進度とズレるだろうと思う冷静な気持ちもあった。とにかく勉強面でも置いていかれたくなかった。不登校中の勉強については以前書いたのでここでは書かない。

 

につづく。

不登校時代の振り返り①

三日坊主を防ぎたくて、記事のストックをある程度貯めてから気まぐれに更新しているんだけど、そろそろ不登校の振り返りでもして記事の数を稼ごうと思う。いつかやるつもりだった。最初の方の記事にも書いた気がする。

 

私は小学校高学年から不登校になったので、1年ごとに分けて記事にしてみる。その方が読みやすそう。

不登校は中学3年生までだったので、綺麗に書けたら4つの記事ができる予定だ。

 

前置きが長くなったが、これから振り返っていこうと思う。あまり覚えてないことも多いが。

 

小学校6年生:不登校になる

6年生の冬頃、だったと思う。修学旅行の時期だった。

ちなみに私は不登校になった明確なきっかけは無い。友達もいたし(数は多くないが)、いじめられてもなかった。

ただ、低学年の頃からしばしば登校拒否をしては泣き喚き、親や先生に3人がかりで学校の入り口まで引きずられるような子どもだった。母や先生には迷惑をかけたと思っている。母が私を先生達に預け、謝りながら帰っていく姿が忘れられない。あと校長や教頭が出てきたこともあった。担任は基本授業中だったからだと思う。教室に入ったらなんだかんだで過ごしていた。

なぜ登校拒否をしていたのかというと、とにかく人が苦手だからだと思う。それと自分の意見を言うこととか。学校は自分の意見をみんなからの視線が集中する中で伝えることが多いから、それが苦手な私はものすごくストレスだった。何かしらの発表がある前日の夜は毎回泣いていた。

 

話は戻って、修学旅行先でクラスごとかクラス内だったかは忘れたが、出し物をすることになった。当時流行っていたダンスを踊ることになり、正直、死ぬ程嫌だと思った。

しかし自分の意見(しかも反対意見)を伝えることが苦手ゆえに、話し合いはどんどんと進んでいった。でも、なんやかんやあって、割とギリギリのタイミングで、その時の話し合いを取り仕切っていた子たちに参加したくない旨を勇気を出して伝えた。意外とすんなり受け入れてもらえて、安心した記憶がある。

「いや、参加せずに済んだんじゃん」って感じだけど、なぜか記憶から離れない。たぶん出し物にほとんどの人が参加する中で自分だけ参加しないことも周りの目が怖かったはず。だから当日は仮病で休んだと思う。友達もいたはずだけど、本当に修学旅行に楽しみを見いだせない人間だった。

 

いつだったか、全校集会で披露する歌の練習を体育館でしていた。舞台に自分の学年全員が並んで立っていた。そのうちの1人で、立ち位置は左の方、端の方ではなく上下左右とも人に囲まれているポジションだった。

私は歌うのが恥ずかしかった。確かその学年は100人以上いたと思うし、自分1人が歌わないところでなんの影響もないだろうとほぼ声出てないレベルで口をパクパク動かしていたと思う。

しかし当時の先生達は「1人でもやる気がなかったら目立つよ」と私たちの前で話していた。

今思えば、もし全員が私のように他人任せになったらちゃんとしたものが出来ないし、先生達の言いたいことはよく分かる。でも当時の私は分からなかった。

そうしたら、学年主任の先生が私を含む数名を名指しで「もっと口を開けてちゃんと歌って。じゃないと目立つよ。逆に注目を浴びるよ」ということを仰った。私はこの時点で泣きそうになっていたと思う(メンタル弱め)。それか泣くのを堪えるためにキレてた。

でも、私は指摘されたことはちゃんと改善しようとして、2度目の歌唱では気持ち程度口を開いて歌った。

ここで、気持ち程度なのがよくなかった。

帰ってから鏡を見ながら口パクしてみて気づいたのだけど、普段ハキハキと喋っていない人間にとって、気持ち口を開けて歌ったくらいでは本当に変化がない。めちゃくちゃ大袈裟なくらいに口を開かないと伝わらない、ということが(よく考えれば分かることな気もするが)当時は分からなかった。

指摘される前は綿棒が差し込めるくらいの隙間が、人差し指がギリ入るくらいの隙間になっただけだった。本当は握り拳が入るくらいしないと、見る人には伝わらないのだ。

歌唱後、学年主任は私だけを名指しして、口をもっと開けて歌えということを仰った。私は当時から人目をよく気にしていたから、100人以上が聞いている中で指摘されたのがつらかった。私は言われた通りに口を開いたのに!と思っていたから。

結局、何度か歌唱を繰り返したが、私は多分半泣き(か、半ギレ)で微々たる変化をさせながら口パクしていた。学年主任は私を注目していた、と思う。いや見るなよ、と思ったような。自然と目がいってしまうほど私が浮いていたのかもしれないが。

練習が終わり、練習中に名指しされた私を含む数名が別の先生に呼び出され、改善するように言われた。おそらくその先生は私の性格を理解していたので、「つらいのは分かるけど、頑張って」というようなフォローをされた記憶がある。理解してくれてる人がいるのは嬉しいけど悔しかった。

 

そして卒業式の練習が始まった頃。

教室の後ろで横一列に並び、呼びかけ(「楽しかった!」「運動会!」みたいなやつ)の練習をしていた。

正直どんな風に練習したのか覚えていない。順番に担当の呼びかけをしていたのだろうか。

しかしそこでも私は指摘された。

理解してくれていると思っていた先生に、強めに指摘された気がする。先生が悪い訳ではないが、つらかった。

 

はっきりと覚えている出来事はこれくらいで、あとは日々の発表ごとが嫌だったとか、そんなレベルで?ということだろうが、私は学校に行かなくなった。

正直"行かなくなった"のか"行けなくなった"なのかは分からない。

当時の日記には趣味がなにも楽しくないと書いていた。正直それは今もたまにあるが、趣味が楽しくなくなったのはその時が初めてだったのでどうしたらいいか分からなかった。今なら「またか〜」という感じになる。放っていたらいつの間にか楽しめるようになるから。

 

ランドセルを背負って玄関で靴を履いてドアの前に立つが、ドアを開けられなかった。開けたくなかった。

毎朝母が見送ってくれるのだが、母が後ろで何か言っていた。でも私はべそをかいたまま突っ立っていた。兄弟が学校に行くときは邪魔になるから、玄関の端に寄って道を譲った。兄弟はドアを開けて颯爽と出て行った。一瞬明るい空の景色が見えたが、ドアは閉まった。私は続いて出ていくことができなかった。

母には呆れられた。母が学校に連絡する中、しれっと靴を脱いで部屋に戻るのは気が引けたので、玄関先で座り込んで泣いていた。母に部屋に入るよう促されるまで、ランドセルを背負ったまま玄関に座り込んでいたこともあった。何時間もいたかはどうかは忘れたけど。

 

学校に行かなくなった当初からこうだったかは覚えていないが、用意をして玄関に向かっては行けない、今日も行けない、ということを何日か繰り返したと思う。当時、旅行先で親に買ってもらったパンダのぬいぐるみを抱きしめながらずっと泣いていた記憶がある。

 

そこからは部屋にこもることが増えた。

先生が家に来ることもあったが、顔は合わせなかった。母が先生と話していた。

部屋のドアには元々鍵がついていたが、外側からコインを差し込んで回せば開けられる鍵だったので、鍵をかけた上からテープをぐるぐる巻きにして引きこもっていた。そうしたら、母がトンカチでドアを壊して開けようとした。母は怒っていた。

私が負けて自分で開けたかは覚えていないが、ドアが開いて、母に腕を引っ張られて、必死に抵抗した。お互い何かを泣き叫んでいたような気がする。きっとお互い疲れていた。私は私自身に、母は私のことで疲れていた。

 

部屋の布団はほぼ引きっぱなしで、その上で過ごしていた。昼夜逆転は当たり前だった。

家族団らんの中に入る勇気がなくて、夜ご飯を食べに部屋を出ることができなかった。そしたら母がお盆に料理を載せて部屋に持ってきてくれた。私が知っている引きこもりそのものだった。静かな部屋で1人で食べた。

 

卒業式は出なかった。

出たくなかった。何度も母に「出ないと将来後悔するよ」と言われたけど、出た方が後悔する、とかなんとか言い返して、意地でも出ないと決めた。でも本当に、今の私なら出れるかもしれないが、当時の私は無理に出なくて正解だったと思う。これは強がりでもなんでもなく。

私が担当する予定だった呼びかけは別の子にしてもらったと後で聞いた。

そして卒業証書は校長と先生が家に来て、母が受け取った。私は部屋にこもっていたが、私に聞こえるように玄関から声を張って証書の授与をしてくれていたと思う。あと先生が私宛ての手紙をくれた。

もちろん、学校に置いていた荷物は私が取りに行くわけもなく、全て母が取りに行ったり先生が持ってきてくださったりしていたと思う。何しろほぼ部屋に引きこもっていたので把握できていない。とにかく一度行かなくなってから卒業まで、小学校に行くことはなかった。

 

につづく。

不登校でも勉強してた話

私は小学校高学年から中学校卒業まで不登校だった。

厳密にいうと、中学校では不定期で別室登校をしていた。

いつかその期間の話も書こうかと思うが、とりあえず今は不登校中の勉強について振り返って書いてみる。

 

実は今、学校の課題をやるのが面倒くさいのでこのブログを書いている。

終わったら勉強するかもしれない。しないかもしれない。

 

 

《これを読むにあたっての前提》

  • 私は勉強が言うほど嫌いではない
  • 提出物を届けてくれる、すぐ近所の友達がいた
  • 通信教材で勉強できる環境が家にあった

 

なぜ前提を書いたのかというと、もし今不登校の当事者・保護者でこのブログを読んでくださる方がいて、何か参考にしようとされたときに、無理をしてほしくないからである。

不登校になる方の理由はさまざまで、勉強することで何か嫌なことを思い出したり、そもそも勉強する気力が今現在なかったりするのに、「この人がやれたんだから私(あなた)もやるべき」という気持ちを押し付けないでほしいと思っている。

余談ではあるが、私は以前カウンセラーさんに「~~する”べき”とは思わなくていい」と助言されたことがある。思わないようにしたら少し気が楽になった。

ということで、これから振り返って書いていこうと思う。

 

 

 

 

勉強し始めるきっかけ

 

小学校高学年から不登校になったと書いたが、正確に言うと6年生の冬頃、卒業間際に学校へ行かなくなった。よって小学校のカリキュラムはほとんど終わっていたはずなので、小学校の勉強はしていない。

私は可もなく不可もない成績を取っていたので、予習・復習する習慣は小学校の時点ではなかった。

中学校は最初の1週間だけ登校したが挫折し、再び不登校になった。

不登校になったことに明確な理由はなかったので、勉強に対する嫌悪感もなかったが、「自分は不登校になってこの先どうすればよいのだろうか?高校なんて行けないのではないか?」という不安と「みんなに置いて行かれたくない」という焦る気持ちから、自分で勉強を始めることにした。

 

 

勉強法

 

当時は昼夜逆転していたので、夜中にラジオや音楽を聞きながら自室で勉強していた。

家族や心療内科の先生に生活リズムを治すように言われても、夜中の方が静かで勉強に集中できると思っていたため、なかなか治らなかった。ちなみに今は朝6時半起床/0時頃就寝と比較的健全な生活リズムになっている。

 

教科書、授業で使ったプリント類とよく短編漫画を投函してくる某通信教材とアプリを使って勉強していた。

通信教材はいつから入会していたか忘れたが、不登校になる以前に飽きて一度退会していたのを再入会したことは覚えている。親が勉強しなさいこれしなさいと口うるさく言うタイプではないため、自分から親に申し出た気がする。不登校になってからは真面目にやってた。

 

実際にみんなが受けている授業と進度を揃えたかったため、(後れを取るのがこわかった)友達に聞いたり提出物を届けてもらっていた。家が近いとはいえ、プリントの山を持ってきてくれた友達には感謝してもしきれない。

当時は「小学校の授業はなんで教科書を見ないで勉強するんだろう?」という疑問もあったため、教科書を端から端まで読んでノートにまとめていた。

 

提出物は提出したかどうかよく覚えていない。プリント類は一通り解いて処分するものがほとんどだったと思う。ちなみにプリントに答えがついてるものは少なく(みんなは授業中に採点していたのだと思う)、穴埋め問題は書くだけ書いて処分していた(意味あるのか?)。あと2年生の後半くらいからプリントを処理しきれなくなって手付かずのまま机の上に山積みになっていた。

 

授業の一環でALTの先生にノートに書いた英文を添削してもらえることがあって、それは純粋に興味があったので何度か提出していた。その時は別室登校していたので別の先生に提出を頼んでいた。

 

教科書の内容をノートにまとめて勉強するのは良いが、英語や数学は教科書に問題が載っていても答えが分からないため、大型の書店に行って「教科書ガイド」というものを親に買ってもらった。解答や解説、英語に至ってはリスニングCDが付属している(が、その分お値段が張る)。

 

以上のように、勉強自体は基本1人で進めていたが、土台には先生や友達、家族の協力があって勉強できていた。とてもありがたく恵まれた環境にいたと思う。

 

 

勉強に活用していたアプリ

 

当時よくお世話になっていたアプリたちを紹介する。プラスアルファで使っていたものから重宝していたものまで。回し者じゃないです。

  • Study plus(スタディプラス)・・・勉強時間を記録できるアプリ。このアプリには3年間ずっとお世話になった。自分の勉強時間が棒グラフ化されるので、達成感がある。めちゃくちゃ多い時で1日8時間くらい勉強した。
  • アオイゼミ・・・中高生向けのオンライン授業アプリ。やっぱり独学じゃ限界があるので分からない範囲をアオイゼミで補っていた。リアルタイムでコメントも拾ってくれるので楽しかった。
  • 中学歴史 完全記憶・・・中学の歴史を暗記できるアプリ。テスト前にちょこちょこやってた。使いやすい。
  • 中学生の実技4科勉強アプリ・・・副教科の問題を解けるアプリ。副教科の勉強は無理だと思い捨て教科(=勉強を諦める教科)にしていたので、テスト前の詰め込みに使っていた。
  • 水兵リーベ - 元素記号暗記アプリ・・・元素記号を暗記できるアプリ。中学に上がる前に予習として元素のことを全く知らない状態から使っていたら勉強が少し楽になった。
  • スマホをやめれば魚が育つ・・・自分でタイマーをかけてその間スマホを触らないと魚が育つ、名前そのままのアプリ。スマホ依存をどうにかしたかったので勉強中に使っていた。

 

 

テスト

 

テストはみんなと同じ時間に、ただし別室で受けていた。

別室には私と同様不登校の人やなんらかの理由で教室から途中退席した人、あとは不良がテストを受けさせられていた。

そんな感じでテスト中にもかかわらず人の出入りはあるものの、基本的にテストの緊張感みたいなものは一緒だったと思う。

先生いるし、時間計ってるし、筆記用具しか出しちゃいけないし。

場所は変わったり変わらなかったりだったが、理科室や家庭科室みたいなところで受けることが多かったと思う。何せ授業を受けていないためどこが何教室なのか把握していなかった。

その上人数が少ないため、席の間隔は広めだった。確か自由に座った記憶がある。

人数は多い時で10人くらい、少なくて3人くらい。終わり次第帰っていた気がする。

そんな感じだったので、ちゃんとテストの点数が成績になった。

 

 

卒業後の進路

 

当時、担任は「学力は足りてる」という旨のことを話してくれたが、高校に週5日通う自信がなかったため、通信制高校を選んだ。

ただ、不登校でも高校に行けるんだ、ということを知った。

私の入学した通信制高校は中学校の復習から始まったため、やってきた勉強も無駄じゃなかったと思った。今いる学校も、中学レベルの内容が絡んでいる教科があり、無駄じゃなかったんだなとひしひしと感じている。

 

以上が私の不登校中の勉強についての振り返りである。

とりあえず、勉強がすべてではないけど、無駄にはならないことが伝われば。

書くきっかけ

私は小学校高学年から中学3年間はずっと不登校だった。

3年前にブログを書こうと思ったきっかけもこれ。

 

ちょうど中学を卒業して、高校も決まった時だった。

不登校になってすぐの時はとっても世間知らずだったから、まあ今もそうなんだけど

「私のお先真っ暗だ。中学は行けても高校なんて行けないだろうな」

って思ってたけど、通信制高校という道があることを知り、

「私みたいに絶望してる不登校の人がいたら、あなたも進学できるよ!って!伝えたい!!」

って思ってた。

だから高校生活の様子とかを書こうとしてたけど、当時はなんか色々凝って作ろうとして、結局飽きてやめた。

 

無理はよくないね。

 

ということで、今は高校も卒業して専門学生です。

とりあえず何が言いたいかというと、元々不登校で、ずっと家に引きこもってて、友達が少なくても、お先が真っ暗だと思ってても、なんとか生きてる奴もいるよ。

 

っていうのを、過去の自分みたいにどうしようもなくてえんえん泣いてる人に言いたかった。

このブログは過去の自分に対するエールでもあるかもしれない。知らんけど。