不登校だったけど、なんとか生きてる

社交不安障害が寛解している学生のひとりごと

不登校時代の振り返り①

三日坊主を防ぎたくて、記事のストックをある程度貯めてから気まぐれに更新しているんだけど、そろそろ不登校の振り返りでもして記事の数を稼ごうと思う。いつかやるつもりだった。最初の方の記事にも書いた気がする。

 

私は小学校高学年から不登校になったので、1年ごとに分けて記事にしてみる。その方が読みやすそう。

不登校は中学3年生までだったので、綺麗に書けたら4つの記事ができる予定だ。

 

前置きが長くなったが、これから振り返っていこうと思う。あまり覚えてないことも多いが。

 

小学校6年生:不登校になる

6年生の冬頃、だったと思う。修学旅行の時期だった。

ちなみに私は不登校になった明確なきっかけは無い。友達もいたし(数は多くないが)、いじめられてもなかった。

ただ、低学年の頃からしばしば登校拒否をしては泣き喚き、親や先生に3人がかりで学校の入り口まで引きずられるような子どもだった。母や先生には迷惑をかけたと思っている。母が私を先生達に預け、謝りながら帰っていく姿が忘れられない。あと校長や教頭が出てきたこともあった。担任は基本授業中だったからだと思う。教室に入ったらなんだかんだで過ごしていた。

なぜ登校拒否をしていたのかというと、とにかく人が苦手だからだと思う。それと自分の意見を言うこととか。学校は自分の意見をみんなからの視線が集中する中で伝えることが多いから、それが苦手な私はものすごくストレスだった。何かしらの発表がある前日の夜は毎回泣いていた。

 

話は戻って、修学旅行先でクラスごとかクラス内だったかは忘れたが、出し物をすることになった。当時流行っていたダンスを踊ることになり、正直、死ぬ程嫌だと思った。

しかし自分の意見(しかも反対意見)を伝えることが苦手ゆえに、話し合いはどんどんと進んでいった。でも、なんやかんやあって、割とギリギリのタイミングで、その時の話し合いを取り仕切っていた子たちに参加したくない旨を勇気を出して伝えた。意外とすんなり受け入れてもらえて、安心した記憶がある。

「いや、参加せずに済んだんじゃん」って感じだけど、なぜか記憶から離れない。たぶん出し物にほとんどの人が参加する中で自分だけ参加しないことも周りの目が怖かったはず。だから当日は仮病で休んだと思う。友達もいたはずだけど、本当に修学旅行に楽しみを見いだせない人間だった。

 

いつだったか、全校集会で披露する歌の練習を体育館でしていた。舞台に自分の学年全員が並んで立っていた。そのうちの1人で、立ち位置は左の方、端の方ではなく上下左右とも人に囲まれているポジションだった。

私は歌うのが恥ずかしかった。確かその学年は100人以上いたと思うし、自分1人が歌わないところでなんの影響もないだろうとほぼ声出てないレベルで口をパクパク動かしていたと思う。

しかし当時の先生達は「1人でもやる気がなかったら目立つよ」と私たちの前で話していた。

今思えば、もし全員が私のように他人任せになったらちゃんとしたものが出来ないし、先生達の言いたいことはよく分かる。でも当時の私は分からなかった。

そうしたら、学年主任の先生が私を含む数名を名指しで「もっと口を開けてちゃんと歌って。じゃないと目立つよ。逆に注目を浴びるよ」ということを仰った。私はこの時点で泣きそうになっていたと思う(メンタル弱め)。それか泣くのを堪えるためにキレてた。

でも、私は指摘されたことはちゃんと改善しようとして、2度目の歌唱では気持ち程度口を開いて歌った。

ここで、気持ち程度なのがよくなかった。

帰ってから鏡を見ながら口パクしてみて気づいたのだけど、普段ハキハキと喋っていない人間にとって、気持ち口を開けて歌ったくらいでは本当に変化がない。めちゃくちゃ大袈裟なくらいに口を開かないと伝わらない、ということが(よく考えれば分かることな気もするが)当時は分からなかった。

指摘される前は綿棒が差し込めるくらいの隙間が、人差し指がギリ入るくらいの隙間になっただけだった。本当は握り拳が入るくらいしないと、見る人には伝わらないのだ。

歌唱後、学年主任は私だけを名指しして、口をもっと開けて歌えということを仰った。私は当時から人目をよく気にしていたから、100人以上が聞いている中で指摘されたのがつらかった。私は言われた通りに口を開いたのに!と思っていたから。

結局、何度か歌唱を繰り返したが、私は多分半泣き(か、半ギレ)で微々たる変化をさせながら口パクしていた。学年主任は私を注目していた、と思う。いや見るなよ、と思ったような。自然と目がいってしまうほど私が浮いていたのかもしれないが。

練習が終わり、練習中に名指しされた私を含む数名が別の先生に呼び出され、改善するように言われた。おそらくその先生は私の性格を理解していたので、「つらいのは分かるけど、頑張って」というようなフォローをされた記憶がある。理解してくれてる人がいるのは嬉しいけど悔しかった。

 

そして卒業式の練習が始まった頃。

教室の後ろで横一列に並び、呼びかけ(「楽しかった!」「運動会!」みたいなやつ)の練習をしていた。

正直どんな風に練習したのか覚えていない。順番に担当の呼びかけをしていたのだろうか。

しかしそこでも私は指摘された。

理解してくれていると思っていた先生に、強めに指摘された気がする。先生が悪い訳ではないが、つらかった。

 

はっきりと覚えている出来事はこれくらいで、あとは日々の発表ごとが嫌だったとか、そんなレベルで?ということだろうが、私は学校に行かなくなった。

正直"行かなくなった"のか"行けなくなった"なのかは分からない。

当時の日記には趣味がなにも楽しくないと書いていた。正直それは今もたまにあるが、趣味が楽しくなくなったのはその時が初めてだったのでどうしたらいいか分からなかった。今なら「またか〜」という感じになる。放っていたらいつの間にか楽しめるようになるから。

 

ランドセルを背負って玄関で靴を履いてドアの前に立つが、ドアを開けられなかった。開けたくなかった。

毎朝母が見送ってくれるのだが、母が後ろで何か言っていた。でも私はべそをかいたまま突っ立っていた。兄弟が学校に行くときは邪魔になるから、玄関の端に寄って道を譲った。兄弟はドアを開けて颯爽と出て行った。一瞬明るい空の景色が見えたが、ドアは閉まった。私は続いて出ていくことができなかった。

母には呆れられた。母が学校に連絡する中、しれっと靴を脱いで部屋に戻るのは気が引けたので、玄関先で座り込んで泣いていた。母に部屋に入るよう促されるまで、ランドセルを背負ったまま玄関に座り込んでいたこともあった。何時間もいたかはどうかは忘れたけど。

 

学校に行かなくなった当初からこうだったかは覚えていないが、用意をして玄関に向かっては行けない、今日も行けない、ということを何日か繰り返したと思う。当時、旅行先で親に買ってもらったパンダのぬいぐるみを抱きしめながらずっと泣いていた記憶がある。

 

そこからは部屋にこもることが増えた。

先生が家に来ることもあったが、顔は合わせなかった。母が先生と話していた。

部屋のドアには元々鍵がついていたが、外側からコインを差し込んで回せば開けられる鍵だったので、鍵をかけた上からテープをぐるぐる巻きにして引きこもっていた。そうしたら、母がトンカチでドアを壊して開けようとした。母は怒っていた。

私が負けて自分で開けたかは覚えていないが、ドアが開いて、母に腕を引っ張られて、必死に抵抗した。お互い何かを泣き叫んでいたような気がする。きっとお互い疲れていた。私は私自身に、母は私のことで疲れていた。

 

部屋の布団はほぼ引きっぱなしで、その上で過ごしていた。昼夜逆転は当たり前だった。

家族団らんの中に入る勇気がなくて、夜ご飯を食べに部屋を出ることができなかった。そしたら母がお盆に料理を載せて部屋に持ってきてくれた。私が知っている引きこもりそのものだった。静かな部屋で1人で食べた。

 

卒業式は出なかった。

出たくなかった。何度も母に「出ないと将来後悔するよ」と言われたけど、出た方が後悔する、とかなんとか言い返して、意地でも出ないと決めた。でも本当に、今の私なら出れるかもしれないが、当時の私は無理に出なくて正解だったと思う。これは強がりでもなんでもなく。

私が担当する予定だった呼びかけは別の子にしてもらったと後で聞いた。

そして卒業証書は校長と先生が家に来て、母が受け取った。私は部屋にこもっていたが、私に聞こえるように玄関から声を張って証書の授与をしてくれていたと思う。あと先生が私宛ての手紙をくれた。

もちろん、学校に置いていた荷物は私が取りに行くわけもなく、全て母が取りに行ったり先生が持ってきてくださったりしていたと思う。何しろほぼ部屋に引きこもっていたので把握できていない。とにかく一度行かなくなってから卒業まで、小学校に行くことはなかった。

 

につづく。