不登校だったけど、なんとか生きてる

社交不安障害が寛解している学生のひとりごと

不登校時代の振り返り②

不登校時代の振り返り①のつづき。今回は中学校に入学する少し前からの話。

リストカットの表記があるので(始まりと終わりをしるすけど)閲覧注意。

 

中学1年生:1週間行くが、再び不登校になる

小学校を卒業して、中学校を入学するまでの空白の期間で私は「中学こそは!」と前向きになっていた。なんの根拠もない自信があった。

確か当時の私は通信教材で勉強していて、その教材についてくる短編漫画の中学校生活はキラキラしていて、少し夢を見ていた。夢を見ることは悪くないけど、自分で自分を振り返ると馬鹿だなあと思ってしまう。後述するが、再び不登校になるきっかけの1つがとても些細なことだった。

 

少しさかのぼるが、小学校の卒業式の前に近所の友達が手紙をくれた。

勝手な私を気遣う内容で、とても嬉しかった。その子は低学年の頃からの友達で、本当に優しい子で、中学校3年間お世話になったし、今でも交流させてもらっている。

手紙には「あなたが良ければ卒業式に一緒に行かないか」ということが書かれていた。

①の方で記述した通り卒業式には出なかったが、中学校の入学式はその友達と行くことになった。正直、どちらが先に誘ったかは覚えていない。

 

入学式当日、友達と中学校へ向かった。

校門にある立て看板の前で写真も撮ったと思う。自分の髪型が変だった。

クラス単位で並んで体育館に向かっている時、6年生の時の担任が近くにいるのが見えて、その先生のことは今でも好きだけど、その瞬間はテンションが下がった。小学校を思い出すから。他の子に「先生だ〜!」「久しぶり〜!」と騒がれていた記憶がある。

小学校の卒業式で私が担当するはずだった呼びかけをやってくれた子に遭遇して、「あの時はごめんね〜!ありがとう!」ということを伝えた。努めて明るく伝えたつもりだが、同じ小学校だった子たちに会うのは正直めちゃくちゃ緊張していた。どう思われているのか怖かった。

 

そこからの私は当時にしては頑張ったと思う。

おそらく6年生時の担任と中学校側の配慮により、入学式に一緒に行ってくれた友達と同じクラスだったが、その子は人気者のため、私は休み時間もクラスで1人で過ごしていたと思う。

でもクラスメイトの名前は早く覚えて仲良くなりたいと思っていた。話しかけることは全然できないけど。後ろの壁にクラスの座席表か何かがあったから、休み時間の度に見ては名前を覚えようとしていた。

 

体育の授業があった。

集団行動みたいな授業だった。よく覚えていない。まだ整列する時の順番が決まっていないから、自分たちで背の高さを見比べて順番に並ぶ時間だったと思う。多分。

当たり前のように私は誰とも話せないので人の周りをうろうろしていたと思うのだけど、その時、同じクラスの子が他の子に向かって私のことを「この子」と呼んでいたのだけ覚えている。その他に何を言っていたのかは忘れた。背の順に並ぶ為に何か伝えていたんだと思う。

で、これが私が馬鹿だなと思うし思われるところで、当時の私はこれが悲しかった。

自分が必死に名前を覚えようとしていたのに、私はまだ覚えてもらえていないんだと思った。

今思えば話したこともないし、「コイツ」呼ばわりされた訳でもないのに、本当に私のメンタルの弱さはすばらしいと思う。今も弱いけど。

これがきっかけとまでは言わないが、なんとか1週間通って土日を挟んだら、もう行けなくなった。行かなくなった。

その1週間は近所の友達と私が当時仲の良かった友達と3人で登下校もしていたはずだけど、2人で行ってもらった。その2人はそこまで遊んだりする仲ではなかったかもしれないので、とても申し訳ないことをした。コミュ力がない私がそうされたら気まずいと感じるだけで、2人は仲良くなってくれたかもしれないけど…

 

こんな感じで、いい感じに(?)不登校脱却したと思ったら見事に再不登校になってしまったので、ここからはとても病んでいたと思う。引きこもってばかりで代わり映えのしない毎日だったはずなので記憶がない。家族に外に連れ出してもらったり、色々覚えていることもあるが、どの時の記憶か分からない。

 

 

(ここからリストカットの表記あり)

 

夜中にべそべそ泣きながら腕や足を切るようになった。当時は剃刀を持ったこともなかったけど、リスカには剃刀を使うと聞いたことがあったので、洗面所から持ち出して切っていた。最初は怖くて力を入れられなかったが、だんだんとエスカレートしていった。痛みを感じたり、血が出たりすると安心した。鉄のにおいがした。剃刀ではなくハサミを使うこともあった。家に先生が来る前に腕を切ることでプラマイゼロだと思っていた。何がプラマイゼロなのかは分からない。ストレスを切ることで発散していたのだと思う。

でも、心のどこかで「将来のために控えめにしておこう」と思っていたので、病院に行くほどの傷は作らなかった。当時は「私には将来がない」と泣き続けていたのに、すごい矛盾だ。でもそこで冷静な自分がいたからこそ、今は半袖半ズボンでも出歩ける。

家族にバレた時は家族会議が開かれた。私は参加していないが、最悪だと思った。リスカがバレた次の日の朝、目覚めると母が私の腕をもって泣いていた時は気分は良くなかった。

 

リストカットの表記おわり)

 

 

1年生の時は別室登校もしなかった。担任が頻繁に家に来てくださっていたと思う。今では忙しいだろうにありがたかったと思えるけど、当時は来るなと思っていた。交換日記を提案されて、少しの間だけしていた。といっても自分のことを書きたくなかったので絵だけ描いて渡していた。

 

親に心療内科に連れていってもらえるようになったのは1年生だったかな。よく覚えてないけど。

心療内科に行った話はまた別で書こうと思う。

 

病んでいたけど、勉強は再不登校になってすぐからしていたと思う。情緒が不安定。

ここでやっておかないと学校の進度とズレるだろうと思う冷静な気持ちもあった。とにかく勉強面でも置いていかれたくなかった。不登校中の勉強については以前書いたのでここでは書かない。

 

につづく。